今回は坂出市医師会誌 第92号(2020.3)に掲載された文章を編集委員会の許可をいただき転載します。

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現在、私は満七十歳、いわゆる古希を超えました。自分が五十歳になるとは、還暦を迎えるようになるとは他人事思い、さらには古希とは無関係と思っていたのが懐かしく思い出されます。そしてこの今になるまで多くの先輩、同輩、後輩にいろいろと教えていただき、あるいは場合によれば同じ目標に対して一緒に行動をしてきたように思います。そのような流れの中で、本当に多くの方々から、自分自身の理解の範囲を超える事柄を教えていただき、指導していただき、多くの知識を与えていただき、今から思い返すと感謝しきれない事柄が無数にあります。

今回はその中から自分の思いからは想像もつかず思いもつかなかった、カルチャーショックとも言うべき異次元の体験、いわば「目からウロコ」とも言うべき驚くほどの影響を受けた師を振り返ってみたいと思います。

その人、向井弘さんは青森県の津軽地方、弘前の南、大鰐町で写真店を営業していた、昭和八年生まれのアマチュアカメラマンです。出身は香川県香川町で、戦後満州から引き揚げ親せきを頼り青森へ移りました。

私は岡山生まれで大学が青森県の弘前大学に進学しました。学生時代は全学山岳部に所属しましたが、同時に医学部写真部にも入部しました。当時の写真部とは大学でも高校でも自分で写真を大きく引き伸ばすという基本的なことが基本であったように思います。私も中学校時代に友人と学校の暗室で写真、当然白黒写真ですが、その引き伸ばしをしていました。高校時代には「芸術写真」を思いなが写したり、図書館でアサヒカメラを見たりの、横目で写真の世界を見ていたように思います。

大学入学後は引き伸ばし技術など、いくらかでも高度な技術を教わりたく写真部に入ったように思います。山で写した写真も大きくしたいし、という感覚だったのでしょう。先輩方にも「焼きの〇〇」というキャッチフレーズのついた先輩もいて、白黒写真のきれいな仕上がりに一目を置かれる方もいました。

そんな中、三年ほど先輩で、今は糖尿病専門として仙台で開業している先輩からは写真そのものの指導に加えて、周囲の実績のある方から評価をいただき自分たちの作品作りにどういかすべきか、ということを教わりました。すなわち大学の先輩だけでなく、外部の方々から意見をいただくべく、行動するその先輩を「金魚のウンチ」的に後姿を追っていました。

そのような状況で写真部の写真展を開催すると、その先輩といっしょに向井さんの来場を待って意見を聞く、評価を教えていただくようになりました。向井さんからはやさしい口調で丁寧に、しかも手短に要点を指摘いただき、本当に納得し「教えられた」感がいっぱいでした。向井さんは地元で写真グループを主宰し弘前でも有名だったとは後でわかりましたが、先輩が向井さんのところに行って直接教えてもらおうと言い出し、二人で一緒にご自宅を訪問するようになりました。ご自宅は小さい写真店でしたが、そのお宅に写真グループの方々が出入りしており、一緒に写真の話や写した写真についての感想や指導を受けていました。

そこでの教えや活動の始めは、写真雑誌の月例コンテストへの毎月の応募でした。先輩や私も向井さんの指導を得て、白黒写真のプリント技術をいろいろと教えていただき、大学でのレベル以上の、白は白く黒は黒く、と本当の焼きとはこういうものかと実感させられました。先輩も私も当時刊行されていたカメラ毎日に何度か入選や一等にもなりました。当時は向井さんたちのグループの活動としては写真雑誌への入選は日常のこととなっていました。

しかしその頃、向井さんたちの写真雑誌の応募への考え方が変わりつつありました。すなわち写真雑誌やコンテストでは選ばれるのにはある基準や概念がある、それを理解するコツのようなものがある、それを追い求めるのは自分自身の表現をするものではない、と言ったものでした。写真雑誌が発売される毎月二十日に弘前市内で、新しい雑誌の写真も見ながら食事をしてお酒も飲みながら写真の話をしていました。次なる世界への段階を模索していました。そのような中で新しいグループ、「イマージュ」を結成し、自分たちの表現を追求しようと、今から思うとすごい熱意に包まれていました。

「イマージュ」としての表現方法、手段は各自が複数の写真、組み写真をまとめ、その複数のメンバーの作品を暗室作業でプリントしてホッチキスでとめ、一冊の本のスタイルにすることでした。一口でプリントと言いますが、今から思うと膨大な作業です。まず印画紙は今のコピー用紙に類似の薄いものです。各自の作品は一枚の印画紙に一つの像をプリントする、組み写真なのでその数だけのプリントする、それが複数のメンバーのため、一冊だけで枚数がかなり増えてきます。さらに仕上げの冊数を考えるともう大変です。あのような写真集の作成に関しては、今ならパソコンとプリンターで作業量はかなり楽になっているでしょう。「イマージュ」は20号までということで昭和四十七年にスタートしました。その年に三号までを、私の大学卒業の昭和五十一年三月までに十一号まで発刊されました。

向井さんは地方にいながら写真家としては写真雑誌の編集者や第一線の写真家とも親交がありました。そのような中で雪の深い青森県津軽に居住し写真を撮っていると中央からは「雪の津軽」というイメージがあったようです。私自身は学生の頃の弘前は雪も降るが、当然雪のない季節が長いし、郷里の岡山と同じようなことも、全く異なることがあり、それは当然のことです。しかし中央の写真の関係者からすると青森は「雪の津軽」の概念だったと聞きました。これは小島一郎という写真家が、雪の深い津軽の風景や人々の生活を写した写真集「津軽」を出版し、このイメージが中央では定着したようです。写真は本当に真を撮るのか、ということが良く言われます。鳩を撮れば平和、逆光の水面にススキが揺ら揺らするときれい、など画像が決まったイメージやメッセージとなるのは間違いだろう、ということです。向井さんたちは、いわばこの固定された概念に強く反発していました。津軽には雪もあるが、そうでない世界が広がっている、それを自分たちが感じたものを、自分たちが思ったように表現する、という気持ちだったと思います。そしてイマージュの活動は、自分たちの表現を模索していた全国のアマチュアカメラマンたちに次第に知られるようになりました。

向井さんは亡くなっていますが向井さんを偲んで、令和元年十二月から令和二年三月まで青森県立美術館で企画展が開催されました。タイトルは「ローカルカラーは何の色?-写真家・向井弘とその時代-」と題され、発刊された「イマージュ」の展示や、当時の大きく伸ばしたプリントなど、向井さんだけでなくメンバーの作品や、向井さんと交流があり津軽にしばらく移住されたプロの写真家、秋山亮二さんの作品なども美術館の壁を飾りました。開会の日には、写真家になっている向井さんの息子さんと向井さんに次いでイマージュを牽引した補佐ともいうべき方、企画展をまとめた学芸員の三人のトークショーもありました。私も懐かしの想いで参加しました。ちなみに私は学生時代に結婚をしましたが、そのお仲人は向井さんです。

大学の卒業後、昭和五十三年三月号のアサヒカメラに私の写真六枚が三ページに掲載されました。偶然ながら同じ号に向井さんも写真八枚を八ページにわたり掲載されたのです。向井さんの写真は「激突!中堅プロ対アマチュア最高峰」というシリーズの一環でした。同じ雑誌に載るという、本当に私の良い記念になりました。その後の私は写真を撮るのは家族の記念写真が主となりました。しかし撮るのは撮るが整理をしない、ということで家内からは文句を言われます。それでもその膨大な家族写真は、今となっては日常生活の良い表情を切り取っており、密かに自分の腕を自慢しています。現在はデジカメ、スマホでそれこそ膨大な量の写真が蓄積される時代になりました。また新しい方法での表現の世界があるのでしょう。

エッフェル塔とセー2005#17エッフェル塔ヌ川

パリ、フランス

 

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