このシリーズで何回か、私のスパンティック峰登山に関する、パキスタン・カラコルム遠征隊への参加についてのことをお話しました。1978(昭和53)年8月のことで、遠征隊員7名のうち2名が登頂に成功しました。今年の8月で44年目ということになります。

参加隊員や留守部隊などの関係者で10年ごとに記念会を開いていました。40周年の前年2018(平成30)年の前年、参加隊員の一人から電話がありました。40周年を記念してパキスタンへ行こう、大規模の登山は無理なので、昔登った山の近くまで歩こう、トレッキングをしよう、という内容でした。当時、私は前任地の最後の年で、登頂40周年の年の3月に任期満了で退任する予定を迎えるところでした。

当時、中東から中央アジアにかけてはタリバンや、ISイスラミックステートなどの、いわゆる過激派に関する、様々なニュースが伝えられていました。私は当時の仕事の退任後は夫婦で週単位での、ある長期間のクルーズを考えていました。

恐がりの私がそのことを言うと、大丈夫、大丈夫、心配ないとの事。今は鉄砲を持ったガードマンを雇える、と。鉄砲を持ったガードマンや頼んでまでのトレッキングが恐ろしく思われました。それとトレッキングに行くとすると数週間からもっと長くなるかもしれません。恐ろしいところへ長い間行くのも大変だと言うと、いつまで元気でいるつもり?いつまで仕事をするつもり?できることを今のうちにやろうとのことです。

電話をしてきた者は昔の行った仲間、当時の隊員7名のうち若い2名が鬼籍に入り、残りの4名に声をかけていました。私の他は仕事や他の理由で参加できない、とのことで、私が最後の望みだったようで。

彼は山に行っていない者にも声をかけていて、その中の一人が行っても良いと言ったそうです。しかし彼は隊員でなかった者とだけ行くことには満足できなかったようです。その気持ちも分かります。登山前は飛行機が着く最奥の村から100人のポーターを雇い1週間のキャラバンで山へ入り、登山の終了後は村まで3日ほどただ歩いて帰ります。インダス川のほとりをとぼとぼと、ただ歩くだけ。歩きながらの話題は日本に帰ったら寿司を食べよう、おでんがいいなあ、熱燗を飲みたい、タクシーに乗りたい、などです。途中、木の実を食べたりで、心は帰国の事だけです。

そんな背景があるので、彼も当時のことを知らない者と行っても、思い出が共有できません。私も行くとなると、あの時はどうだった、あんなことがあった、と思い出話ができるのに、という気持ちがあったのでしょう。

40年ぶりに行こう、と言われ躊躇する私に笑いながら「時間はまだあるので、また電話する」ということでした。家内曰く、「不良仲間からの電話みたい」。

ドナウの真珠と称されるブダペストを流れ2208#44ブダペストとドナウ川るドナウ川

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